「死後に突然名前を付けられても、これまで親からもらった愛着のある名前がある。」

そうです。ですが、戒名をつけて、これまで愛着のあるお名前を捨てるわけではありません。

むしろ初めて付ける戒名に愛着無いのなんて当たり前です。

ですから、納得いただけない御戒名であったとするならば、それは宗教者・仏教者側にも問題がある可能性もあります。

たとえば、私ども曹洞宗寿徳寺がおつけする御戒名は、
 愛着のある生前のお名前も必ず戒名に入れます。
  
そもそも、生前のお名前は、「こんな人になればいいな」「こう育って欲しい」など、親(あるいは名付け親)が願いを込めておつけする名前です。

ですが、人生を全うした故人と残された者にとっては、ある意味、実際にどう生きたかと故人を讃えることができるわけです。それは自分からみれば社会的な業績など無い平凡な人生に見えるかもしれない。
でも、残された者にとっては、そうでは無いわけです。

残された者にとっては、故人がどんな仕事をしていたかだけでなく、どんなことに打ち込んだか、生前どんなお人柄や趣味であったかなどのほうが大事であったりするわけです。
そして、我々もそちらが大事と思っています。

実直な人、誠実な人、優しいひと、頑固な人、こんなことがあった、そんなことをお聞きしながら、
それを示し讃える文字を選びます。
その際も、なるべく熟語や故事を踏まえながら、戒名に相応しい文字をお選びします。
そして、死後の世界安らかに過ごせるように、今後の願いを込めた字も入れます。
 
そしてそれらが熟語や故事となるように付けております。

「戒名は自分でつける」という本があるそうです。
自分の人柄や好きな文字をいれれるから良いという主旨です。しかし、もし、こだわりがあるなら、我々にそれを伝えてください。そもそも、故人の人柄を御戒名に入れるように当寺ではしております。しかし、あえて、この文字を使って欲しいというご希望があれば、ご相談ください。

文字にも順序があり、こうした方がよい、この字は入れるべきではない、色々とあります。
戒名である以上、たとえば焼き肉が好きだからといって、「焼肉院汁汁熱熱居士」(やきにくいんじゅうじゅうあつあつこじ)などの戒名はやはり変なのです。
これは誰がみても変だと思いますが、しらないうちに、自分で付けてしまえば、これに近いことを行ってしまうわけですから。

それでも、どうしてもこだわりがある方は、ご一緒に名前を考えて、生前戒名を受けてください。
アドバイスも出来ます。