業者さんの手を借りながら、先代住職と寺族(お寺の奥さんや娘さんのことです)の遺品整理をしました。
今回は、遺品のなかで残すものの選別をこちらで全てして、処分するものの引き取りをしていただきました。

自分たちで故人の整理をすることによって色々と考えることがありました。


正直、遺品整理をする前までは、どこか、供養といっても実感が湧きませんでした。

今回、整理をして部屋を片付けると、故人の部屋を片付けている実感が湧き、部屋を片付けて、どこか申し訳無い気持ちにもなりました。

この世に残された我々は、遺された故人の部屋を故人が付き添わない状態で片付けなければならないのです。エンディングノートなどを整えても、どうしても片付けはしてもらうことになります。


これまでは部屋がそのまま残っており、どこかまだ死を実感していない自分がいましたが、

生きている我々が生活するためにも片付けをする必要があるわけです。
そして、恐らく奇麗になったこの部屋を、故人も喜んでくれるはずです。

しかし、どうしても、今回、部屋を片付けてしまい、申し訳無いという思いがありました。

やはり、この世の居場所であった部屋や家を片付ける我々の手で、新たな居場所(お墓)をつくってあげなければならないんだな・・・と強く思ったわけです。

(歴代住職のお墓はありますが、寺族のお墓は無いので、これから建てることになります)。


恐らく、全て遺品整理を業者に任せてしまったらこういう思いにもならなかったと思います。

我々も、正直、住職も勤めもあり、全部を遺族我々の手でするのは無理でした。

しかし、少なくとも、遺すものの選別を我々がしたことで、故人と向き合う時間を作れたと思います。

我々が今、生きることは、故人のこの世での居場所を奪ってしまうことでもあり、申し訳なさでもあり、その分の責任を感じることであります。
そうした思いがあることも、仏壇や御位牌、お墓を我々が必要としてきた理由だと思います。

最近、はやりのエンディングノートで生前に、遺品の処分や分配でどれを遺すかなどすべて決めてしまう人がいます。
遺された者に迷惑をかけまいと思うのは、大事なことかもしれませが、何事も行きすぎはよくありません。

後継者に負担を全くかけず、物も思い出も何も残さず、全てを奇麗にしてこの世を去ろうとは思いすぎでしょうし、また、何でもかんでも遺してこの世を去るのもまた困ります。

全く整理をしないでこの世を去るのは、それはまた、遺族も困りますので、しっかり整理をしていいってあげてください。

ですが、ある程度、遺品整理というのも、遺された者にとって大事なのです。

遺品を整理しながら、あるいはお墓参りをしながら、遺された者が故人を近くに感じ、あるいは、遺された者が死と向き合い、生きるということとしっかり向き合うことが出来るのです。

それは、人間らしい心を育てる上でとっても大事なことでは無いでしょうか。

後継者の心の成長の機会、心の通話の機会を奪わないでください。

遺族も面倒くさいからといって、全てを業者さんに丸投げせず、一緒に整理をしたほうが良いと思います。

エンディングノートであれこれ決めたとしても、
遺品整理においても、子孫にとっての大事なものは、故人にとって大事な物と必ずしも一致しません。
何を残すか。その選択を子孫にある程度、させてあげるのも大事なことでしょう。