勉学を積んでも、実際のところはどうなのか、ということを禅では厳しく問うてきます。(けっして勉強しなくてもいいという話ではありません)。
今日取り上げたいのはそういった話です。
ある勉強家のお坊さんが、ある立派な禅師(ぜんじ 禅の修行を極めた方)の下で学び、
夜も更けてきた時の話です。
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禅師は、言う。「夜も更けてきた。(そろそろ終わりにして)何故さがらないのか」
勉強家のお坊さんは、「外は真っ黒です」と言う。
禅師はお坊さんに、灯り(燭)を渡してあげようとする。
お坊さんが受け取ろうとすると、
禅師はその瞬間、
フッとその灯を吹き消してしまった。
そこで、そのお坊さんは悟った。
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という話です。このお坊さんは、『金剛般若経』(こんごうはんにゃきょう)という
とある経典に詳しい方でした。
その理解は、いわゆる頭でっかちの理解であり、理論を追いかけ回していただけ。
しかし、禅師に会って、実際に 目の前で 灯りを吹き消されたとき、
一瞬にして辺りの闇に包まれたとき、
自分が紙の上で、机の上で解決しようとしていた 様々な事柄が、
自分の前に真実として、そのまま、
この目前にあることを強く感じ、悟ったのでは無いでしょうか。
灯りに照らされていても、
あるいは、辺りは真っ暗で姿は見えなくても、
あるいは、そのお経の理論を理解しようが、
理解しまいが、
世間的に成功しようが、
あるいはしまいが、
どちらにせよ、火は吹き消せば消え、虚空に包まれるように、この私達の命は、大きな世界の法則(仏教では空といいます)に抱かれて、いま、ここに生きています。
そのことに目を向けなさい、とこの逸話は言っているのかもしれませんね。
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※便宜上、一般にはあまりなじみが無い僧名をそのまま記すと、、話を理解するのに少し難しいと考えたので、僧、禅師と記しました。それぞれ、徳山宣鑑、龍譚崇信(生没年不詳)のこと。
※夜まで徳山が何をしていたか、諸伝では違っており、『景徳伝灯録』では「黙坐」(坐禅)し、『聯灯会要』では「侍立」(仕えて)、『無門関』では「請益」(教えを請う)して夜になったとしており、また、『景徳伝灯録』では、次の日に、経典の註釈書を焼いたという部分はありませんが、『聯灯会要』・『無門関』では、次の日、この僧は皆に、自らの悟りを話し、そして、そのまま、お経の註釈書を焼いてしまったと伝えています。その際に「いかに理論を解き明かしても、それは虚空に髪の毛一本を置いたようなものに過ぎず、この世の重要な問題を決したとしても、それは大きな谷に一滴の水を垂らしただけに過ぎない」と言ったと伝えます。
この記述は『景徳伝灯録』には無いようなので、この話が何度も説かれるうちに、解説にあたるような、この部分が出来てきたのかもしれません。
※一般向けの本では、『無門関』収録の話がよく知られていますが、須山長治『『禅語録』を読む』角川学芸出版2010でも、『聯灯会要』版のこの話の書き下し・解説が載っており、手に入りやすく良いのでは無いかと思います。
※はじめて少し長い禅話をとりあげましたが、「短く。わかりやすく」を目指すこのブログでこうした禅話を伝えるのは難しいですね。
色々と諸本の違いを取り上げたくなったり、原文を載せたりしたいとも思いましたが、このブログの方針に反するのでこうした記事となりました。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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