2015年9月23日水曜日

今日のモーニングバードのお彼岸特集

今日 テレビでを見ていたら、


「実は葬儀の説法の場で、『天国で安らかに眠っている』と説法した僧侶がいて、
偽僧侶とばれてしまった事例があります。」
天国はキリスト教で仏教には、浄土と極楽しかないのに、・・とスタジオで盛り上がっていました。
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でもね。実は、仏教の世界観では「二十八天」なんて言うように
かなり多くの天があるんですよ。
大黒天・弁財天なんかもインドから日本に仏教とともにやってきた神々ですよね。


仏教にも天国は(厳密に言うと、「天道」・「天堂」といい)あり、人間よりはるかに長命であり楽しみに満ちた世界として書かれています。


でも仏教的には、いまだ輪廻にとらわれている世界の一つであり、さとりの世界には到っていないと考えています。




仏教の世界観では、どんな世界も無常であり、そんな世界で自らがどのような心のもちようで、どのように欲望を少なくして安心して暮らすのかが問題となります。




天にいって神になろうと、そこがいかに楽しい世界で寿命がはるかに長かったとしても、その世界で暮らしている神々が、傲慢であり、欲望に満ち(ギリシャ神話のように)人々を殺したり困らせていれば、それは仏教の「悟り」の世界や悟りの心の安らかさとは全く正反対なわけです。




仏教では「天」での生活は、人間界より快適で優れているわけではありますが、心のありかたを言う仏教では、
天での快楽ではなく、自らの心の持ち方や存在への執着のありかたを問います。


ですので、よい世界に生まれ変わるというのは過去の善行の結果であり、天国で自らがどうするかがあくまで問題になろうかと思います。






そういう意味では、やはり欲望を離れたという意味の
「極楽」や「浄土」という言い方のほうが「より良い」のは確かです。




しかし、一概に、一般の日本人に広まっている言葉を使うのも、わかりやすく伝えるという意味では、悪いとも言えないのではないでしょうか。






実は、古来から日本人が「あの世」を表す言葉はいっぱいあるんですよね。だから天国で・・・なんて言っている大抵の日本人が想像しているのは、確固たる聖書に書かれているキリスト教の天国ではなく、これまでの「草葉の陰」や「浄土」で表してきた、日本人の漠然とした「あの世」なのでは無いかと思っています。






だから、天国だろうが、浄土だろうが、草葉の陰だろうが、「言葉」は何と言ってもいいんだ、と思います。


確かに仏教的にいえば、「極楽」や「浄土」という言い方のほうが「より良い」のは確かでしょう。


一方で、



日本人も弥勒信仰があり、弥勒のいる「兜率天」の国に生まれ変わることを願ったりしているので天国らしきものは昔から日本人は想像していたのでは無いか、とも思います。