2015年12月30日水曜日

寿徳寺の骨葬・戒名授与の花祭壇





当寺に法要を依頼されるのは檀家さんのみではありません。
首都圏では葬儀・法要等を、葬儀社や派遣会社紹介の僧侶に依頼されている方が多くいらっしゃいます。
そういった方が当寺をネット等で見付けていただき、わざわざ後日、法要を頼んでいただける場合がございます。


その際には、お骨をお持ちいただき、法要・戒名授与・位牌開眼等、一度に法要を行う場合も多いです。




(※戒名授与の際のみ、ご希望により写真のような花祭壇風の荘厳での法要が可能。

もちろんシンプルにすれば、お布施のみに諸費用を抑えることもできますのでご安心ください。





2015年11月1日日曜日

ハクビシンの侵入を防ぐ



市街地にハクビシンという動物が出没して、被害が問題になっているそうです。


当寺も数年前から被害に遭っておりました。そこで一念発起して
人間の拳ほどの隙間があれば、ハクビシン侵入の恐れがあるそうです。日本建築の場合、屋根の下などに隙間があることが多いそうです。
当寺も鉄板で隙間を塞ぐ工事を駆除業者にしていただきました。
拙僧も本堂の屋根の上にのぼって、工事の様子を拝見・確認させていただきました。


お寺は建物が大きいので、
ハクビシンのかわいらしい顔からは想像もできない駆除費となりました。


一昔前では考えられないハクビシンの町中への出没という事態。
横浜も山林が開発されていっているからでしょうか。時代は変わっていきますね。

2015年10月13日火曜日

庭園の風紋


住宅街のなか、横浜市鶴見区江ヶ崎町にある当寺ですが、枯山水風の庭園を備えています。
庭師さんにも入っていただきながら、いつもは副住職が時間のある時に手入れしています。
多忙な住職が自ら風紋を描くこともあります。
人によって、描く文様は異なります。同じ人が書いても同じ風紋にはならず、日によっても違います。庭で禅の心を表しているのです。

2015年10月2日金曜日

中秋の名月





「明月清風」


禅宗では、明月清風(明月のなか吹くさわやかな風)を、きよらかで澄み渡った禅の境地と重ね合わせています。


「めいげつ」というと「名月」と漢字で書くことが多いですよね。


禅宗では明月と書くことがあります。


漢字の意味としては実は、「名月」はあまり意味が通りません。有名な月、素晴らしいあの月、という意味になりますが、月はひとつなのに、有名な月と有名ではない月があることになります。これは少し変かもしれません。


実は、「めいげつ」は、もともとは「明るい月」という意味の明月だったようです。


しかし、日本人が秋の立派な明月をめでるうちに、秋といえば明月・・・秋の月は素晴らしい月だ、と和歌などによまれるうち、あの素晴らしい秋の月、として認識された結果、「名月」と書くようになっていったようです。日本人が秋に月を愛でる・・・四季の豊かな日本で根付いた「名月」の話でした。


写真は、秋のさわやかな風のなか、「名月」に照らされた当寺の本堂です。

2015年9月23日水曜日

今日のモーニングバードのお彼岸特集

今日 テレビでを見ていたら、


「実は葬儀の説法の場で、『天国で安らかに眠っている』と説法した僧侶がいて、
偽僧侶とばれてしまった事例があります。」
天国はキリスト教で仏教には、浄土と極楽しかないのに、・・とスタジオで盛り上がっていました。
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でもね。実は、仏教の世界観では「二十八天」なんて言うように
かなり多くの天があるんですよ。
大黒天・弁財天なんかもインドから日本に仏教とともにやってきた神々ですよね。


仏教にも天国は(厳密に言うと、「天道」・「天堂」といい)あり、人間よりはるかに長命であり楽しみに満ちた世界として書かれています。


でも仏教的には、いまだ輪廻にとらわれている世界の一つであり、さとりの世界には到っていないと考えています。




仏教の世界観では、どんな世界も無常であり、そんな世界で自らがどのような心のもちようで、どのように欲望を少なくして安心して暮らすのかが問題となります。




天にいって神になろうと、そこがいかに楽しい世界で寿命がはるかに長かったとしても、その世界で暮らしている神々が、傲慢であり、欲望に満ち(ギリシャ神話のように)人々を殺したり困らせていれば、それは仏教の「悟り」の世界や悟りの心の安らかさとは全く正反対なわけです。




仏教では「天」での生活は、人間界より快適で優れているわけではありますが、心のありかたを言う仏教では、
天での快楽ではなく、自らの心の持ち方や存在への執着のありかたを問います。


ですので、よい世界に生まれ変わるというのは過去の善行の結果であり、天国で自らがどうするかがあくまで問題になろうかと思います。






そういう意味では、やはり欲望を離れたという意味の
「極楽」や「浄土」という言い方のほうが「より良い」のは確かです。




しかし、一概に、一般の日本人に広まっている言葉を使うのも、わかりやすく伝えるという意味では、悪いとも言えないのではないでしょうか。






実は、古来から日本人が「あの世」を表す言葉はいっぱいあるんですよね。だから天国で・・・なんて言っている大抵の日本人が想像しているのは、確固たる聖書に書かれているキリスト教の天国ではなく、これまでの「草葉の陰」や「浄土」で表してきた、日本人の漠然とした「あの世」なのでは無いかと思っています。






だから、天国だろうが、浄土だろうが、草葉の陰だろうが、「言葉」は何と言ってもいいんだ、と思います。


確かに仏教的にいえば、「極楽」や「浄土」という言い方のほうが「より良い」のは確かでしょう。


一方で、



日本人も弥勒信仰があり、弥勒のいる「兜率天」の国に生まれ変わることを願ったりしているので天国らしきものは昔から日本人は想像していたのでは無いか、とも思います。